◆ 小史
東西に長いヒマラヤ、カラコルム、そしてヒンズークシの山々は、古来南のインド世界と北のユーラシア世界を隔ててきた。この山々の北、ユーラシア側には天山やパミール高原が障碍になってはいたが、比較的緩やかなステップやオアシス帯を内包する道があり、広範囲にシルクロードと称されて東西文化の交流が盛んであった。南のインド世界との間にもいくつかの谷筋と困難な雪山の峠越えを伴う道はあったが、北から南に抜けるには仏教東漸の道に観られるように古くはステップ路から西トルキスタン西部の流れの緩やかになった平地を南下して、カーブル河の地峡でヒンズクシを抜けてインダス流域に至る迂回ルートが多かった。
一方ヒマラヤ山系の東方では北にチベット、コンロンの乾燥高原が拡がり、極端に水も草も少なく、かろうじてヤルカンドからカラコルム峠、レー、スリナガルのルート等が取られていた。中間部のパミール地帯の稜線沿いにはワクジル峠を分水嶺にして、西にワハン渓谷を、東にタクトンバッシュの谷が東西に切れ込み谷の南稜線にはミンタカ、キリックを含むいくつかの通行可能な峠がある。
この地域をカバーする交通ルートについて我々はアレキサンダーの東征、漢の張騫の西域遠征、西域諸国の中国への朝貢貿易、法顕、玄奘の求法の旅、高仙芝のヤシン攻め、ジンギスカンの西征、等の文献記録をたどって、先人がどんなルートで東西にまた南北に渉ったかを検証し、また、19世紀後半から20世紀初頭にかけては英,露、清のトルキスタン分割グレートゲームの中で探検家や軍人諸氏の残した多くの報告から氷河遡行、峠越え、向こう側の水系と文化の様子等を想像できるようになり、それらの地域が平和であれば現在ではそれをたどっておおかたのルートは追体験が可能になっている。
19世紀後半以降、インドと清を結んでの西欧列強の関心はカシュガルを中心に展開され、東西トルキスタン、カシュガル、インド間についての記録が多くなる。南北路について初期はカーブル川筋、小パミール経由でタシュクルガンに抜けたが、後に印度北西辺境のギルギット、チトラルへの軍事補給が比重を増すにつれて最短距離の北上路が重要視され、スリナガルから北上してブルジル峠越え、アストール谷を下って、ブンジまたはタリチでインダス川に出会い、ギルギット、フンザ川を経てミスガルに至り、ミスガル谷を遡上してムルクシでの二股を東に上ってグルカワジャ氷河の舌端から左折して峠を越え、中国側ミンタカ氷河を下ってタクトンバッシュパミールを東に下り、北折してタシュクルガン、パミールの最高峰ムズタグ・アタの麓でサリコール谷に越えてカシュガルに達するルートがイギリスの公用道路となった。ちなみに大谷探検隊はキルギスのオシュからカシュガルを経ずに直接タシュクルガンに下ったあと、上記ルートを南下してカシュミール、スリナガルに到っている。
ミスガル川ムルクシの二股を西に上るとキリック峠を越えておなじルートに合流するが、ミスガル、キリックのルートは単に南北の為だけではなく、往事は吐蕃、バルテイスタンからフンザ、ワハン に抜ける東西交通路、シムシャール渓谷、ボロギル峠ルートの一部でもあった。高 仙芝が撃ったサルハドのの吐蕃が拠った連雲堡の吐蕃の補給路もこのルートであったと私は考えている。
1891年イギリスのフンザ攻撃には公用道路の安全を脅かすフンザ人山賊の排除も目的の一つであったろう。その後、英、露、清によるパミール国境協定、また英、露によるイラン、アフガニスタン勢力協定や国境線の策定とトルキスタンの分割、地域宗教による民族自治運動、革命、二次に亘る世界戦争など、政治、軍事情勢の悪化により外国人の入域が困難な時代を経て、第二次大戦後のインド、パキスタン分離によるルート閉鎖が続き、1900年のスタイン(キリック峠)、1902年の大谷隊(ミンタカ峠)の記録以降一世紀にわたって空白の地域になっていた。
この間シトロエン調査隊、タイクマン等によるミンタカ越えはあったが確実な情報としては戦後、テイルマンがミンタカ峠を越えてワハンに至るインド、パキスタン分離の1947年まで待たねばならなかった。パキスタン分離の結果ギルギット公用路は閉鎖され、ラワルピンデイからギルギットに通じる北上路はマンセラからカガンバレー経由、バブサル峠越えの古道に変更を余儀なくされ、チラスに出る悪路の我慢がカラコルムハイウェイ(KKH)の開通まで続いた。
中国が中央アジア制覇の一環と考えるインド洋への陸路として、パキスタン援助で建設したKKKは、インダス川を遡上し、フンザ川沿いに北上、ゴジャール、ソストからはミスガル谷に左折してミンタカ、キリックへ向かう旧来の道をとらず、ソストからクンジェラブ川に沿って東に向かい、クンジェラブ峠を越してからミンタカ川と合流し、タシュクルガン、カシュガルに通じた。カラコラム山地を自動車で越えられる便利さをもたらした反面、アストール谷、カガンバレー、ミスガル谷、シムシャル谷の交通は忘れられた存在になる。それだけにミンタカ、キリックを訪ねたい想いもますます強くなるのだった。
パキスタン政府が観光政策上、チャプールサン渓谷を外国人に解放した1993年には早々と広島三朗隊3名が西からヤルフンを遡上、カランバール峠からチリンジ峠を越えて、チャプールサンに降りた。ミスガル谷の解放を待ち侘びる我々は準備活動として95年にイシュコマンからカランバール峠を越えてヤルフン水系をチトラルまでトレッキングし、途中ボロギル峠ではワハンを望んで唐の時代に七千の軍馬を率いてこの峠を越した高仙芝をしのんだ。
待つこと久しく98年にミスガル谷が解放されたとき、最もそれを希っていた広島さんは無念にもK2の氷河に眠っていたが、ミンタカ峠には日・パトラベルの督永隊2名が99年6月に1番乗り、2000年8月には甲南大学隊4名がミンタカ峠、同年9月に寺沢、飛田隊がミンタカ、キリック峠、更にキリック峠の西、ワクジル峠の稜線の南、アフガニスタン国境線上にあるといわれる幻のハポチャン峠を氷河の手前、最奧の牧草地ハポチャンまで偵察して帰った。そして漸く2001年8月私の長年の夢だったミスガル谷トレッキングが寺沢隊と同じルートで踏襲されたのだった。
私どもはハポチャン氷河スナウトの草地(≒4600m)で敗退したが、帰路ギルギットで出逢った高地医療の専門家で、ワハンから戻ったばかりの増山氏にその情報を伝えて後事を託し、氏はチャプルサンからバダクシャンの馬を雇ってハポチャンの氷河に達し、峠に立った最初の日本人となった。
フンザの主邑カリマバード地区より北、国境までのアッパーフンザはゴジャールと呼ばれ、グルミットから、パスーを主な部落としてワヒ族が居住する。ワヒの村人は古くからフンザのミールに従っていたが、タジクと同様にペルシア語系でフンザのブルシヤスキー語族ではないがバイリンガルも多い。 またグルキン、パスー、バツーラの各氷河のパミールに、またパスーの対岸アブデガルの斜面、クンジェラブ川流域の野生生物保護区の国境付近まで、広範囲に夏村を持ち移牧と農耕を営む静かな人々で、果樹栽培と牧畜技術に優れている。そんな中にあってミスガル村はブルシヤスキのフンザ人の村でミスガル谷のミンタカ、キリック両谷のカールに拡がる草地を全面的に夏村として使用しており、数十年前までは住んでいたワヒも今はいない。
グレートゲームの頃、フンザのミールはミスガルにワヒの数家族を入植させたが、あまりの生活苦にワヒはグルミットに帰ってしまい、次にミールはブルシャスキの5族からえり抜いた5家族を交代に送り込んだ。彼らの努力の末裔が今のミスガルブルシャスキなのだという。
ミスガルで現地ガイドとして雇ったフンザ人の長老狩人(アブドウル・ジャバール 59才)の話では、夏になると村の総数約170家族の家畜を三つに分け、羊と山羊を二分してミンタカ地区とキリックベールに, 牛とヤクはハポチヤンベールに追い上げる。村中で専業の25家族が有料委託で一夏の移牧を請け負い3カ所の囲いを管理する。山に上がる家族は4年で交代し、期間中は10日ごとに山を下りる。高山病対策か、均一に仕事を振り分ける術か。 ハポチヤン地区の約300頭のヤクは個人の物ではなく、45家族の共有財産にになっている。ミスガル谷ではロバが運搬手段だが伝統的に馬は飼わない。消費した家畜の補充は主に隣のワハンから移入するが、移動のルートはデイルサン峠を利用する。ミンタカ地区でヤクの必要な場合、中国、タクトンバッシュから借りることがある。徹底した合議制でしきたりは守られ、我われもワヒのガイドがいたが、ミスガルでは仕来りに合わせブルシャスキの長老ガイド、22人のフンザ人ポーター、3頭のロバを雇い、生卵、野菜などを補給してトレッキングを開始した。要するにミンタカ、キリックを目指してこのミスガル谷を歩くと言うことは、標高はさしおいて勇ましい登山をすることなどではなく、普通の生活道路を地元の人々の日常に合わせて軽くハイキングすると謂うことなのだった。
◆ ミスガル谷を歩く
今年(2001年)の夏は珍しく大雨でインダス川流域の多くの地域で水害が起きた。通常でもインド亜大陸とユーラシアプレートの摩擦で崖崩れの起きる箇所が多いKKHもご多聞に漏れず、イスラマバードに到着した日から通行止めになった。空の便もギルギット便は当分見込みなしで不通箇所は徒歩連絡しながらとにかく陸路をフンザに向かった。フンザからはナガールの氷河、グルミットからグルキン氷河、パスー氷河などを適当に歩いて、足慣らしと体調の調整を行い、途中グルミットでコック2人、ソストで食料などを仕入れガイド(イマン・ラーヒム 25才)とともに3人のワヒ人、我々3人がアッパーフンザ最奧の村ミスガル(標高2947m)に最初のキヤンプを張ったのは8月1日(水)であった。
◇8月2日(木) 朝の気温16度。カラムダルチの吊り橋まではジープが入るが、一部の道路が崩れたため我われは歩いた。ミスガル谷の左岸段丘を緩やかに上り、1947年に通過したテイルマンがパキスタン独立の日にユニオンジャックを降ろすのに立ち会ったというカラムダルチの砦下でワハン国境の峠に向かうデイルサンベールを分ける。デイルサンの水はグレーがきつい。上流の氷河がキリックベールより大きいのだろう。
涼しげな柳の林アーバドブルでランチ。ルーンヘル、プットヘルなど美しい牧草地をやり過ごしてルプジャンガルでキャンプ。ここは村の決まりで家畜を放さず、豊かな湧き水と牧草、一面の桜草。ダケカンバ風の樹下に張られたテントに泊まる。(3,600m)
◇8月3日(金) 平坦はムルクシで終り、正面の巨大な山塊がミスガルベールを東西に分ける。左のキリックベールより右のミンタカベールの水量が断然多い。ミンタカベール右岸サイドモレーンの斜面を、滝状に落ちる流れに沿って急登する。陽射しが強くなり携帯傘を差して歩くのでストックがじゃまになる。ムルクシ周辺には先住ウイグル人の家族の墓や耕作の跡がいくつか残されていた。川幅が広く流れも緩やかになった岸辺に広い芝生のボアヘルに正午に到着してランチをとるあいだ、先についたポーター達は手掴みの鱒採りに余念がない。このあと70m程に拡がった冷たい流れを徒渉して左岸に渡り、程なくヤトムグーズの家畜囲場前のテントに到着(4009m)。ヤトムグーズは昔、グルキンのワヒ人の夏村だったが、今はミスガルフンザ人の夏村に替わっている。夕刻続々と囲いに戻る山羊、羊の群れから離された黒い山羊1頭が我がグループのキッチンに消えた。群れの中にアフガン特産の尻に大きな脂肪を持つ羊がいる。アフガン北部同盟の補給路としてのミスガル谷の実体を見たようだ。陽が落ちると突然寒くなりスエーターにゴアを重ね着する。
◇8月4日(土) 発熱した仲間(木村)を高山病を警戒してロバの背でミスガルに送る。グルカワジャの石小屋が前進キヤンプの予定だったが中止して下山準備とし、ここから日帰りでミンタカ峠の往復とした。石小屋で丁度北緯37度、氷河舌端は後退して大きな氷河湖風に浅く大きな水面を作り、その西岸を歩く。ガイドのイマンの祖父はフンザミール時代の郵便夫で、カシュガルに通うたびにこのルートを利用したと往時を偲んだ。舌端にたどり着くと(4300m)47年にテイルマンが記録した写真より痩せてはいるが、さすが堂々とした氷河が東国境のピークに伸びている。正面の四つのピークが印象的。その左端、急な切れ込みが峠の入り口。急なモレーン堤を左に登り、花少々の池塘から更にモレーンの尾根を上がって漸くミンタカ峠に到着。尾根風に長いモレーンの鞍部は東の低いあたりが峠道のようだが、西の高い国境標柱付近から見る中国側のミンタカ氷河は南のグルカワジャ氷河より高く舌端はアイスフォールになっている。この位置で4,707m N:37.00.26.5, E:74.51.16.6であった。中国側タクトンバッシュパミールは豊かな牧草の斜面でヤクの群れや牧羊犬が放たれているのが遠くに見える。帰路、石小屋から雨になり12時間を費やした一日が終わる。
◇8月5日(日) ムルクシに戻り、下山準備のまま停滞する。昔、ここはフンザのミールがアイベックス狩りを催した独立の山塊の下で、石小屋の跡などもあり、今は村の決まりで放牧の家畜を入れない。従ってルプジャンガルと同じく緑の草長けは十分ありシオガマなど花も少々。ダケカンバ風の林が疲れを癒す。大谷探検隊もスタインもここでフンザのポーターとワヒのヤク部隊を取り替えている。
◇8月6日(月) ギルギットの病院から仲間の安全を知らせる伝令が届く。再び明日からキリックに向かうことにして、生鮮食料の調達にポーターをミスガルに送り、残された2名は高度順化をかねてキリックベールをシプシピック(3672m)まで往復する。この辺がジュニパーやダケカンバの植生北限のようだ。此処はまたこのあたりで最も美味な湧水がある。同行のワヒのコックは、幼少の頃ムルクシに棲みこの銘泉で祖母は家族の料理を作った。彼は祖母の墓に注ぎたいと、ペットボトルに泉を移した。
◇8月7日(火) キリック峠に向かう。河岸段丘に取り付くまで暫くの急登で息が切れるがその後は緩やかな道で幅も広く、いくつかの美しいパスチャーを越して進む。ミンタカ峠が中国人の狩人によって開かれたのは比較的新しく、20世紀初頭の探検家たちの記録によって有名になったが古くからの南北路はキリックだったというのは頷ける。駄獣を連れての山越えはミンタカよりキリックの方が遙かに優しい。後頭部を厳しい太陽が直撃するのを除けば殆ど並のハイキングコースである。シリンメダン(4121m)の草原で腹這いにうずくまる驢馬と並んでランチタイム。シリンメダンが甘いお菓子のような、という意味だとは的を射て美しい。
やがて正面に大きな国境山脈の壁が立ち塞がり谷は殆ど丁字形に仮名の「イ」の字のように左右の振りわけられたところがハーク。東北がキリックベール、南西がハポチヤンベールでこれを詰めるとアフガン国境のワクジル峠山稜の南方に突き上げる氷河になり、幻のハポチヤン峠で直接アフガンに抜けられるという。キリック、ハポチャンの合流点、そしてミスガル経由で楽々フンザに繋がるとすれば、もってこいの交通路であることは太古の昔も変わらなかったとみえ、交差点のハークにはミンタカ周辺で見ることの無かった古い岩絵が大量に残る。素晴らしいのは普通に見られるアイベックスだけでなく、ヤク、狼、馬上で弓を番える狩人等が豊かに表現されている。昔同様に今でもマルコポーロ羊や雪豹が棲むこの環境をミスガルの人々は守り続けなければならない 。
合流点のキリックベール左岸、サドブルデイには、山羊、羊。ハポチヤンベール左岸の台地にはヤク、牛の囲い場がある。我われはサドブルデイ(4,340m)にキヤンプを張る。 サドブルデイの草原に点在するにも大岩にも岩絵があるが、ハークに較べささやかなものだった。ここからキリック側にいかにもキヤンバスを広げたように岩が並ぶが、注意して歩いても岩絵は見あたらず、合流点の北、国境側に集中するのは何か狩猟民時代の祭祀か居住等になどに関係が在るのだろうか。深夜、満月に近い月明かりに牧羊犬が鳴く。
◇8月8日(水) 明け方より雪。テント内気温5度C。テントの雪をストックでたたいて出る。 キリック峠を目指し左、右と水量の少なくなった玉石を渉りながら登る。4416m で西からウインペルト、東からコージャゴムの流れを合わせる三つ又の中央を進み、シャフドラトで西にカーブした後、小さな崖を登ると、殆ど1キロにも及ぶ広々とした台地にでる(4800m)。95年にダルコット氷河を前にして辿り着いたボロギル峠のような一面緑の草原を想定していたのに花などはおろか、殆ど草もなく、褐色に乾いて干割れした台地に強い北風が吹いているのだった。近年の温暖化のためか。付近の植生を見ると相当の乾燥には絶えられそうな草の様子なので、昔から変わりがないのか判断に苦しむ。
キリックベールは氷河を持たない。交通には便利だが水には恵まれないのだ。北西のピークに張り付く雪渓の水は中国側に落ち、心なしか中国側の斜面は緑が強い。国境に立つ標柱(4,809m N:37.04.42.4 E:74.40.23.9)の中国側すぐ後ろまで、ジープの轍が残る。下山は真正面にハポチヤン谷のパノラマ。ハークの岩絵の原を底にして雄大なカールの奥に光る国境氷河と、その後ろに幻のアフガンを覆う薄曇りを見ながらベースに下る。
◇8月9日(木) 残り日数が足りなくなり、今日はヤクに乗ってってハポチヤン往復となる。土石流で上下動の激しい悪路を山の飛行機は時速4.1キロで谷の左岸を快調に登る。アフガニスタン国境氷河正面の肩が幻のハポチヤンパス。流れ出てすぐ右岸で合流する氷河を国境の尾根に沿って南西に越えると、デイルサンベールのワルギストクーンへ、もう一つ下流の氷河を南に越えると同じくワドワシュクに出られ、何れもアフガニスタンに抜けるデイルサンパスにつながると老狩人は言うが正面のハポチヤンパスを含み、三つの魅力あるコースを通った人はミスガル村で過去に2人しか居らず、現在の生存者は80才を越す老狩人ひとりだけという。ハポチャン峠は5000mを越す氷河にある。折から降り出したみぞれに、雪山装備を持たない我々は4600m地点の最後の草場で戻ることにする。ここに生える株立ちの草は先の尖ったやや堅い草で、ヤクはこれを食べているようであったが、その草の名がハポチヤンというのだそうな。幻の峠の存在は確かだが使われない峠であることもまた確かなのだった。我われはは敗退して帰るが、次に機会のある人は是非越えてほしい。七千、八千ばかりが山ではない。誰も通らないが確実に通れそう、優しく美しい氷河、小人数で力まずに歩けるだろう5000m級のルート。そんなトレッキングが広まることを願う。ハークに戻る手前。対岸ラプドロフの斜面に放たれた色とりどりのヤクは見える範囲で98頭まで数えられた。ハポチヤンべールに南から流れ込む谷はどれもすごい量のモレーンを押し出して、谷をS字状に曲げている。大地震でもあればモレーンは谷を塞いで災害を呼ぶのではないかと心配しながら下山した。今回の行動期間は月明かりで満天の星を見損ねたように心残りもあったが満足のいく旅だった。明日はすべてを撤収して帰らねばならぬ。
(パミール・中央アジア研究会 '05年会報 掲載原稿)