仏塔に見る「龍」について ~ガンダーラから薬師寺まで~
■ 双塔形式の薬師寺
昨秋(1975年)、正倉院展を機会に飛鳥を訪れ、本薬師寺の東塔跡で心礎の水溜まりに、よく晴れた空を写して檪のはの浮くのをみた。西塔跡のマウンドに立って我が国最初の双塔伽藍形式の寺域を眺めると、荒れた金堂跡の礎石群のみで講堂跡は見えず 、特異な形式を持った寺院の建築群構成であるのに、その良さを満喫することが出来ないが、しかし、遺跡に佇んで往事を想う旅人にとって此処に刻を費やす気分はこよなく良い。本薬師寺を振り出しに諸寺・遺跡を廻り、秋の陽の早くも落ちかかる頃西の京、薬師寺に着いた。
造営中であった新金堂は殆ど落成に近く、覆屋、足場も撤去され、西の空と見紛うばかりの朱の高楼に、連なる甍をいからせて建っていた。仮殿に移転を待って据えられた薬師三尊の周りを包む闇に揺らめく灯明に和んだ姿をもってしても、何とまあ居丈高な建物であろう。東塔の水煙がキッカリ収まるカメラアングルに都合良く、西塔心礎の心柱穴に水を湛えた造作の努力と、聞けば新金堂の屋根にはハトの大群が集まらぬ装置として多量の針を埋め込むのだという工夫の妙とは双璧をなすのであるかもしれないが、建築群の配置バランスは決して良いとは見受けられない。ただ新金堂で良いところと謂えば創建時の精神に近づく努力としてまさに竜宮をかたどった建物として復興したことがあげらている。
■ 竜宮,薬師寺,今昔物語
今昔物語集巻11,第17「天智天皇 造薬師寺語」*1 の前段は、天智天皇が飛鳥高市の郡に寺を興し、藥師像を安置し、のち奈良の都、元明女帝が西の京の現在地に遷したもうたことが記され、後段にその縁起譚として、
其の天皇の御師という僧有りて、定に入りて竜宮に行きて其の竜宮の造りを見て天皇に申し行いて「スコフルマネヒツクレルナリ」
とある。
当時の竜宮の観念がどんなものだったかを、同じく天竺部 巻3、第11「成龍王聟語」に見ると、訳あって竜宮に降りた釈種が見たものは、
見れば七宝の宮殿有り、くがねの木尻、しろがねの壁、瑠璃の瓦、摩尼珠の瓔珞、栴檀の柱也。光を放つ浄土の如く也。
と、其の華麗なる様を画くが、当時の薬師寺はいかばかりであったろう。しかしこれを見た釈種は、さすがに龍の棲まう処だと気付いて、
「斯く有りと云えども此等、皆まことには虵(くちなわ) のわだかまり蠢(むくめ) き動きあえるにこそは あらめ」
と、人の住む国に帰りたくなり、竜王から玉の箱をもらって帰ることになる。
薬師寺を脱線させて龍の話を続けるのが目的だからこのまま話を続けると、この釈種が持ち帰った玉の箱を天竺の国王に奉るとき、中に納めてあった錦に包まれた剣で、ひと突きに王を仆して位に即き、国を従えたあと再び竜宮に戻り竜王の娘を后に迎えて返ってきた。ところがさすが竜王の娘だけあって、
「目出度く清気なるに、寝入りたるときと、二人臥して例の男女の婚合(まぐあい)の時とには、后の御頭より 虵(くちなわ)の頭、九を指出で、舌なめずりをヒラヒラとして有れば、其れにこの天皇、少し疎ましと思いて、后の寝入り給える程に、例の如く指出でひらめくに、虵(くちなわ) の頭どもを皆切り捨てつ」
など、鬼気迫る話になって、人の子の頭痛持ちはこれが原因などと語り伝える。
この今昔物語天竺部にはこのほかに、大雪山中の一池に棲む龍が羅漢に供養し、其れをねたむ弟子の小沙弥が死して悪龍と化し、先住供養の龍を制して池に住み込むが、カニシュカ王に調伏される話(第7話)。まじめな牛飼いがたまたま乳を切らしたために国王に責められ、「我れ咎無くして責めを蒙るに堪え難し。我れ悪龍となりて国を破り国王を害せむ」と、投身化龍し岩の洞に入ったが、釈迦如来が来洞、其の影を洞に残してその毒心鎮める瞿婆羅龍の話(第8話)。また竜王と金翅鳥(ガルーダ)の話なども記されている。
■ 龍を追ってガンダーラへ
すでにお気づきの如く、前記天竺部の物語は主に大唐西域記のからの翻案で、最初に掲げた第11話は西域記巻3、烏仗那(うじやーな)(スワート河流域地方)の藍勃廬(らんぼろ)山頂の龍池に関して、烏仗那国の王統と釈迦種族とにまつわる説話であり、第7話は、巻1、迦畢試国(かぴしこく)(チャリカールを中心とするカピシ地方)の一条で、王城の西北二百余里で大雪山に至る。山頂には池がある,と始まる龍池の伝説を遷している。瞿婆羅龍(ごうぱらりゆう)の第8話は、巻2、那掲羅曷国(ながらはるこく)(カーブル川沿いのジャララバード付近)の城西南二十余里程、滝しぶきのあたる東壁にあったという仏影窟について、その昔法顕は,うたた近づけば微にして髣髴として有るが如し、と言い、宋雲は、近づきて看れば即ち瞑然として見えず、手を以て摩すれば唯石壁あるのみ、とし、玄奘をして、近頃あまりはっきりとは見えぬ、と言わしめた話であった。
西域記中で龍の話といえば、やはり第一に迦湿弥羅国(カシミール)の建国話があげられる。この国の土地はもとは龍池で、仏の予言によって如来寂滅50年後にカシミールに現れた末田底迦(マデヤンティカ)阿羅漢に信心した竜王が「池の中に私の体を入れるほどの場所を」との望みに、水を縮めて布施したところ、阿羅漢は神通力によって身体を拡張させて水を干し、棲み家を失った龍王は逆に阿羅漢に小さな池をもらって住み替えたという。 その土地に阿羅漢は五百の伽藍を建て、賎人を外国から移入して使役に当てたが、のちにその賎種が自ら立てた君主で自分の国を興したと云い、花や果物の多い国は長く龍に守られて栄え、龍種の馬なども産するという。
何れにしろ玄奘が此のあたりをを歩いた630年頃に収拾した説話の数々には、カシミール、スワート、ジャララバードを含むガンダーラ、罽賓の地において、土地の人々をナーガ(龍の意)族、蛇、龍としてそれらを賎種とし、仏教による宣撫教化 を色濃く残しながら、侵入征服者たちの持ち込んだ上座部保守仏教と、虐げられる側に芽生えていたジャータカや仏伝、何なに譚などから実践的に教えを汲み取ろうとしていた大衆部や、竜王信仰を含む土着のその他の信仰との交渉が感じられ、其の大衆部にあった初期大乗的希求として、目に見え、手に触れられる仏像を求めにかかった頃の説話が仏影窟のゴーパラ龍となるなど、当時の様子がよく伺えるものになっている。
■ 「ラージャタランギニー」の龍説話
玄奘がカシミールに達した頃、その地にはラバヴァルダナ王のナーガ王朝を意味するカールコータ王朝が創始されて間もなくの頃で、国を挙げてのナーガ信仰が盛んだった。
そのカールコータ朝の初期を綴って七世紀頃には成立していたと見られる「ニーラマタ・プラーナ」、さらに下った十二世紀中葉までを綴った「ラージャタランギニー」によって、新唐書箇失密(かしみーる)伝に云う摩訶波多摩龍池即ちマハパドマ湖(スリナガル西北のヴラル湖)の竜王説話を詳述した論考*2に、筆者がハッダ(カーブル側ジャララバード南郊)のフィッシュポーチ*3で71年秋に実見した情景と部分的ではあるがよく似た箇所があるので引用させていただく。(ハッダ遺跡はその後ソ連軍侵攻に続く内戦により壊滅。2007年追記)
カールコータ王朝第11代ジャヤピーダ王は、ジャッジァとの長い抗争で勝利を握り カシミール王に即いたが、ある時王は夢の中で神の姿をした者に話しかけられた。
「王様、私はマハーパドマと称するナーガ(龍)の王で、一族とともにあなた様の領地で平和に暮らしております。私はあなた様にお願いいたしたい事があります。実はドラビダ人の魔術師が私を此の湖から連れ出し、水を必要とする乾燥した土地で売り、それで儲けんものと企んでおります。もしあなた様が私をその魔術師からお守り下さるなら、あなた様えの恩返しとして、金を産する山を此の土地でお見せする所存です」と。さて夢の中でこれを知った王は、先ず各方面に手配し、その魔術師を捜し出し、その意図をただし、さらにどの様にしてこの深い湖からあのナーガを引き出そうとするのかを尋ねた。魔術師は彼の持つ不思議な魔力によって湖の水を干上がらせた。すると湖の泥の中でのたうつ巨大な人面をした蛇を他の小さな蛇の群れと共に見いだした。王は此の様子を見て、直ちに魔術師に対し、『ナーガを捕らえてはならない』と命じ、もとの湖に戻さしめて金貨を与えて帰した。」(後略)
ハッダのフィッシュポーチに刻まれている、水紋に浮かぶ巨大な人面の蛇の描写としてはよくその面影を写す文面だが、阿羅漢がドラビダの魔術師に、如来がカールコータの王に転化したりすることは、説話の成立が後世に下るものであろ以上起こりうることで、ハッダの床面彫刻に見られる情景と、引用文の根は同一だと思われる。 (写真はハッダ、タパ・ショトールのナーガ?に座する仏像)
■ 龍説話の日本伝来
説話発生の現地に於いてさえ斯くの如きだから、我が日本に至って今昔物語として収録される十二世紀初頭とも成れば、指し出でたる九つの龍の頭が人の子の頭痛の種に変化しても致し方ない事とする。玄奘が説話を採録しながら歩いた龍の話の出る地域は、前記ガンダーラ地区の他に、イッシククル(天山の北、キルギスの熱海)の大清池には龍も魚も雑居するし、さらに東の屈支(クッチャ)に至れば国の東辺に大きな龍池があって龍種の良馬を産すると誌される。屈支のさらに東、阿耆尼国(あぎにこく)(カラシャール地方)の 国王の姓氏は「龍」だと言う。*5
このように西域記時代の龍の分布を見ると、ヒンズクシ北方、西トルキスタンには欠けており、カピシを含むガンダーラ、カシミール地方から直接北上して東トルキスタンに流れ込んだかに見える。トカラ語の文献が梵文からの直接訳で、ソグド語などを経由した重訳でなく、東トルキスタンにインド語の影響が直接及んだで有ろうとする指摘*6 を含めて大小二乗の二重構造を持った中央アジア仏教の展開ルートとも重複するように思われて興味をそそる。
日本に現れる竜宮説話のルートが直接北上して北魏系等に乗った早い時代のものか、玄奘以降の新訳経典とともに遅く来たかは竹原古墳の時代感覚も含めて不明であるが、少なくとも、西域記に誌された内容の説話については斉明朝の第四次遣唐船に乗船したと思われる日本僧智通・智達の二人が、唐で直接玄奘の教えを受けたと伝えられるが、此の船は新羅・唐連合の百済攻め直前であったためか唐で捕らえられ、二僧の帰国も判然とした記録が無く、もし持統朝の再開第一船で帰国したときに説話も上陸したとすれば、薬師寺創建後の八世紀初頭であろう。日本最古の西域記残簡が法隆寺蔵の785年、日本書紀に現れる玄奘以降の新訳経典の初出が持統朝以後という記録も其れを裏付けるのではないだろうか。
前記した「龍種の馬」思考は本来中国が発生地であり、西にはトルキスタンに及び、さらに極東は九州竹原の装飾古墳で有名な壁画に示される馬の図柄もまた龍種を祈って水辺に牝馬を曳く図だと指摘される。*4 とすれば、物ののみならずこういった思考まで、古墳時代の昔すでに玄奘より早く馬と一緒にも我が国に上陸していたのであろう。
■ 新羅の双塔伽藍と龍
薬師寺創建にまつわる説話も、すでに今昔物語の十二世紀になると、史実を離れ天智天皇創建と誤り伝えられる様になっていたが、誰も知るとおり薬師寺は皇妃持統の病気平癒を祈願して天武天皇が680年に創建したのが史実と言うことになっている。法隆寺着工後、概ね80年を経過したその頃、大寺院建築の技術レベルは一応国産化していたであろうが、説話に云う竜宮デザインが語るように建物そのものの意匠については設計者、デザイナーなどの輸入又は外国の手本を倣うという状況は在ったかもしれない。
この頃統一成った新羅では679年に四天王寺が、また682年に海中王陵で名高い東海の感恩寺がそれぞれ双塔伽藍で建立されており、薬師寺はいち早く其のデザインを模したとされている*7。しかも其の3寺に共通して龍の説話が絡んでいるので、なおさらその感を強くする。翻って我が国の仏教伝来以降の伽藍配置を見ると、薬師寺までに四天王寺式から法起寺式へと移っていた。飛鳥寺の塔を中心とする三金堂配置を四天王寺式の軸線上に塔、金堂を配置する型とするか、高句麗清岩里廃寺の塔を中心黄道と置き、四方に、玄武、朱雀、青龍、白虎と置く史記天空書五星座から来た天文思想*8 の型として別にするかは異論の在るところだろうが、飛鳥に現在多く見られる遺跡からも、初期に四天王寺式が多く、やがて638年法起寺が興されると、同一軸上に在った塔が金堂とは軸線を対称に左右に建てられることになる。百済軍守廃寺と難波四天王寺、百済と河内の二つの烏含寺*9, 慶州皇龍寺と大官大寺など一塔伽藍形式は彼我共に多く、その頃半島文化の強い影響下に日本が置かれていたことを示している。
しかしながら法起寺式の配置は三国時代の新羅にも百済にも無く、二基木塔伽藍配置が慶州の四天王寺として現れるのは、新羅統一直後の679年であった。法起寺式と慶州四天王寺式とは同一に論ずるわけには行かぬだろうが南北線上に対して東西に分かれるという発想は、たとえ二基仏塔であろうが、金堂+仏塔であろうが、そのデザインクリテリアとしては同軸配置とはっきり異なるものだと考える。さらに百済滅亡後天智朝になると、斉明母帝百済出兵ゆかりの地である太宰府に観世音寺、飛鳥に川原寺、近江に都を遷した後は崇福寺と何れも法起寺式で、しかも東塔と西金堂の正面が互いに向き合うバリエーションで創立された。この間新羅では引き続き高句麗と戦い此を亡ぼしたが、百済戦では連合した唐が新羅に侵攻する等があって半島の統一は676年となる。このとき三国遺事は法師明朗が竜宮に入って唐調伏の秘法を会得し、四天王寺を創って唐軍調伏の道場を開設したと伝える。白村江の敗戦、近江朝遷都など百済にかたを入れた日本は新羅と敵対すと思いきや、壬申の乱で天智の弟、天武が勝利すると、唐との交渉は切れ新羅との往来が多くなる。此の勝利について天武を応援したのが、新羅系氏族だったからかもしれないが*10,
天武以降持統、文武の間に、新羅など三国からの来日25回、遣新羅使などの渡朝11回に及ぶ密接な交渉が日本書紀に記録されている。一方、この交渉にについて新羅側の記録は倭兵来攻となっており、天智・天武と同時代の新羅王について三国遺事の記事でそのあたりの事情を探る。
文武王(661年ー680年)は倭兵の来攻に備えるためその侵入コースであった東海岸ー吐含山ー慶州平野の東海岸を仏力によって鎮護すべく感恩寺を創建したが完成を見ずに薨じ、その子神文王(681年ー691年)は、死して龍と化しなお東海を鎮めんとする父王の遺言により文武王を海中の大王岩に葬り、また、岩を見通す位地に感恩寺を完成するに当たり、化龍が東より入り込める様に金堂の床に穴を作ったと伝え、其の構造は発掘調査によって確認できるという*11 。この感恩寺がまた双塔伽藍形式を持っている。
■ 薬師寺の双塔形式はどこから
薬師寺の双塔形式は新羅を模したものではなく、法起寺ー崇福寺から自然に生まれたものだと主張したいのだが、これだけ材料が揃うと、龍の説話がインパクトになって崇福寺式から薬師寺式に転化したとでも云うべきか。注意すべきは、天智帝の大津の宮に在ったとされる南滋賀町不明廃寺跡は現在東塔心礎のみが残っているが、調査の結果東西両塔を持つ白鳳の伽藍でしかも塔基礎は12m角というから相当大型の両塔が在ったと思われることだ。創建が天智期であるなら我が国最初であるは勿論、慶州四天王寺の双塔より少なくとも10年は早いことになる。また近くの崇福寺の対称配置方式にも近い。慶州四天王寺の塔は規模の小さい三重の塔であったという*12。
その後慶州での双塔の変化は名僧元暁の住したという高仙寺跡は木・石両塔、感恩寺、千軍里寺、仏国寺は石塔双塔で何れも塔は小型化をたどっている。藤原から奈良に遷った後も大型木造の双塔形式に進み、当麻寺、東大寺とその伽藍配置を展開させた日本の状況とは大分異なる変化を新羅が指向していた様に感ずる。説話のとらえ方を見ても新羅説話では、敵国調伏、怨念化龍など、西域記に見える化龍報復などの思想に近いが、薬師寺の場合はむしろ美しい物にたとえて、その大陸的な厳しさと、島国浦島的な発想とはどうも根本的に噛み合わない様に思える。天智・天武記に新羅の統一を絡めて東アジアに大きな転回を強いた時代の力に乗った国家仏教の確立が、白鳳美術として我々に強く迫る何ものかの大枠となることは当然のこととしても、薬師寺式伽藍配置の方向はそのもとを唐にとり、新羅の影響は充分に受けながら、法起寺から崇福寺、南滋賀廃寺を経て独自に進んで達したもだと筆者は思っている。
所詮、空想の龍はこの辺でお役ご免としても、崇福寺の対向配置西金堂方式に法起寺式から移る頃の弥勒浄土、西方阿弥陀浄土信仰と、末法感、当時の輸入経典に示される仏教思想から導かれる伽藍デザイン、多賀城廃寺と崇福寺形式、唐における左右対称の都市計画、同じく都市城内の塔寺の位地と伽藍配置への影響等々、双塔伽藍配置へのアプローチは龍と無関係の処になお多く在ると思うが、竜頭蛇尾となったところで次の話に移る。
註 *1 岩波古典文学全集版
*2 関根秋雄 : 鈴木 俊先生記念論集(山川出版)
*3 モタメデイ・遙子 : ハルブーザ誌49号(1976年2月)
*4 金関文夫 : MUSEUM 誌 215 号(1969年2月)
*5 水谷真成 : 大唐西域記(平凡社中国古典文学大系 22 )
*6 アジア仏教史 中国編Ⅴ第5章(佼成出版 1975年12月)
*7 田村圓澄 :飛鳥白鳳物 仏教論(雄山閣1975年)
*8 米田美代治 :朝鮮上代の建築と伽藍配置に及ぼせる天文思想の影響
建築学会論文集(1941年4月)
*9 田村圓澄 :朝日新聞1978年9月24日夕刊
*10 金 達寿 :壬申の乱(日本の中の朝鮮文化誌23 号) *11 金 宅圭 :新羅及び日本の神仏習合について(吉川弘文館)
*12 斉藤 忠 :図録東洋仏教遺跡 (吉川弘文館)
( 1976年6月 ハルブーザ誌 53号より復刻)
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