新聞の惜別欄で藤田和夫先生の訃報を。
私の灯台だった先生を偲んで
六甲を研究のフィールドにして神戸の大震災を予告したが「ここまでひどいとは・・」と、絶句せしめた活断層の大家の訃を新聞は震災記念日の前夜に報じた。
先生の学問の業績は遍くが、それを擱いて私のような素人の中央亜細亜ファンにとって、ヒンズークシュに関する最高の先達に先立たれたことを悼まないわけにはいかない。
(画像枠をクリックすると画面が拡がります。著書218p.)
1955,56年と京都大学の隊員としてカラコラム・ヒンズクッシュを精力的に歩き、数々の貴重な記録を残されたが、同行の本多勝一は91年に「憧憬のヒマラヤ」を、先生は「アルプス・ヒマラヤからの発想」を92年に文庫本にまとめられ、広く一般人に愛読された。
私はたまたま、91年から上智大学教授土谷遙子先生についてギルギット川流域調査にお供し始めたろであり、シャンドール峠、ギルギット間のメイン道路から南北の支流を一本づつ探索し始めた初期だったので、先生のイシュコマン流域からヤシン流域に関わる本邦最初の記録は座右必携の指南書であった。
文庫本はポケットの中でボロボロになり、93年、イシュコマン川を遡りイミットの集落では、本多が記した「セタールを弾くイミットのラージャ」に逢い、本多を「佳い青年だった」と40年前を回想されり、チャトルカンドで訪問したギザール地方全域を管轄するイスマイリーのピールから聞いたワハン回廊へのルート情報が、カラコラム・ハイウェイの開通以前は、藤田先生も記録した此処イシュコマン、カランバール、コーラボルト峠経由だったという一言が、その後10年を超す法顕のヒンズクシ越えルートの仮定と探索に重要な示唆を得たり等、此の辺りの地勢に関する先生の記録を現地で確認する貴重な案内となった。
晩秋、ヤシンの河原に張ったキャンプを午後4時半になると決まって強烈な南風がテントを吹き飛ばす勢いで約30分間北に吹き上がる。翌朝、千切れた川楊の小枝と葉が散り敷いた河原から上流ヒンズーラジの山並みを仰ぐと、数段に褶曲した断層崖の絶壁に、昨夕の南風で運ばれた水分が積雪になって縞模様にうねり、さながら巨大な龍が山巓を走る姿。此のあたりに広く分布するナーガ伝説は此の風景から自然に生じたたものであることを実感する。此の南風はまたカザフの水辺で冬を察知したソデグロツルがインダス河口カッチの湿原を目指してヒンズクシを越えるためには必須の上昇気流でもある。
先生はこう記す。
「新雪のおかげで、地層の層理面が強調され、地質構造が明瞭に観察出来るのが、わたしを驚喜させた。なかでも主峰アサンバル(5798)の西側の山腹は、えぐりとられた様な絶壁で、断層、地層の褶曲状況を模型のように露出している」
此の時の経験と感動が、故広島三朗氏に従いてカランバール水源湖からチトラルに至る大ヤルフン流域トレッキングに参加、以来ヒンズラジ、ヒンズクッシュ、ワハン、パミール周辺に関心を持ち続ける大きな原動力となったのだった。
老人の魂に小さいけれど消えることの無い強力なともしびを点けてくれた藤田先生に更めて感謝、2002年3月、先生にお引き合わせを戴き、親しく当時のたびの追想を伺い、著書にサインを戴いた在りし日を追想しながら ご冥福をお祈りいたします。
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