大正14年12月、冬のカーブルを発ってバーミヤン、ダンダンシカン峠を越えるヒンドウクッシュ西足道を日本人最初の踏破者としてマザリサリャリフに到達し、大晦日の夕刻、水位の下がった川面を半分ほどで下船してのこり半分は州を徒渉して対岸テルメズに上陸し、以降鉄道を利用してタシュケント経由モスクワに赴く。
帰国はシベリヤ鉄道で、15年初夏に東京に帰着した。帰国後大著「亜富汗斯坦」を上梓し、日本、アフガニスタンの友好に尽力した田鍋の数多い業績の内、此処には前記ヒンドクッシュ越えの24日間の日記から踏破したルートのみを抜粋、要約し、併せて其のルートを検証してカーブル、バーミヤン、ダンダンシカン峠越え、マザリシャリフ、アムダリヤ渡河、そしてテルメズ到着まで地図を掲載する。
日本とアフガニスタンの友好に力を注ぎ、大著「亜富汗斯坦」を上梓した田鍋安之助は東亜同文会理事の肩書きで日本人として2人目のアフガニスタン入りを果たし、初めて本格的なアフガン情報をを日本にもたらした。大正14年10月にインド、シムラから陸路カーブルに到着、アマヌッラー・ハーンに謁見。ハーンの日本とアフガニスタン友好を望まれる書面をアフガニスタン外務省より預かり、天皇陛下の天覧に供すべく奉帯し、帰路は日本人がアフガン往来にインドを経由することを好まない英国に対して、ソヴィエトを通る陸路の新ルートを自ら開拓すべく、中央亜細亜を横断して革命後未だ国交の回復がなされていない首都モスクワに向けて旅発つ事にした。
最寒期の12月8日にカーブルを発ち、バーミヤンからヒンドウクッシュに入り、難路ダンダンシカン、カラコタールの峠をこえてハイバクに至りマザリシャリフからアムダリヤに向けて北上、31日大晦日の夜アムダリヤを渡ってソヴィエト領テルメズに入った。
テルメズから鉄道によりタシュケントに立ち寄りモスクワを経由してシベリヤ鉄道で帰国した。
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中国と天竺、カピシ、ガンダーラ間の交通路には、サリコール山脈、カラコラム山脈による中国、天竺間の東西障壁、ヒンドウクッシュ、パミールによるトルキスタン、ガンダーラ間の南北障壁がある。これを如何に越えたか、の旅人ルートは古来様々に記録されているが、最南端のカラコルム峠道を除き、概ね下記にバリエーションをつけたルートが時代の変遷に揺れながら利用されてきた。
① ミンタカ峠、アストール谷、スリナガル、カシミールルート(大谷光瑞が利用、イギリス時代カシュガルえの公道) ヒンドクシュ越え最東端ルート
② フンザ川、インダス下りルート、(烏弋山離道として一般汎用路)
③ ワクジル又はネザタッシュ峠、ワハン、小パミール、コーラボルト峠、の法顕コース、
④ ワハン、ボロギル峠、ダルコット峠、ヤシン、ギルギット川、の高仙芝ルート、
⑤ ヤルフン川下りチトラル、ガンダーラコース、
⑥ ワハン回廊、イシュカシム、ムンジャン峠、パンジシール谷、ガンダーラコース、
⑦ カシュガル、アライ谷、カラテギン、バクトリアコース、
⑧ 天山南路、ワハン、トハリスタン、バルフ、バーミヤン、ガンダーラコースの最西端ルート
桑山正進著「カピシ・ガンダーラ史研究」1990 で先生はヒンドクシュ越えルートを詳細に検証し、4世紀まではカラコルム山脈寄りの東足道を、5世紀頃ははヒンドクシュ中央部を、6世紀頃以降はトハリスタン西部のバーミヤンを経由する西足道が盛行したと、当時の歴史を担った支配者の勢力範囲の動きと旅人の記録をルート地図とともに示し、南北ルートは東から西えと時代に応じて変遷したと説いた。上記で謂えば時代順に①②③⑧と動き、最終の西足道の地図には地名の書き込みこそ無いが、バーミヤンを通るダンダンシカン峠、ヒンドウクシュ越えルート、即ち田鍋が記録したルートを明確に指摘している。田鍋のルート詳細報告は昨今まで不明であったバーミヤン西足道の詳細を私どもに知らしめる唯一貴重なもので、大谷光瑞の東足道、法顕、宋雲、高仙芝等の中央道、玄奘が覩貨邏の故地として誌した西足道に関わる記録に匹敵する貴重な記録となった。法顕は還暦の後、長途の旅に出て雪山を越えた。田鍋も62歳にしてしかも厳冬期雪山を越え、周辺地勢の詳細は勿論、何と其のルートに雪が無いことを、そして当時グレートゲームの醒めやらぬソヴィエト政権の初期にヒンドクシュの山道に婦人を含む多数のロシア人が往来する状況を記録した。しかも一般に考えられるクンドウズ水系ではなくサマンガン水系によったルートだったのは意外であった。田鍋の記録は関根正男氏によって国会図書館で確認され2006年、「日本・アフガニスタン関係全史」(明石書店) に発表された。同書に全文は転載されていないが、その 「続対支回顧録 下巻」 の「カブルより中亜横断莫斯科へ出づる記」の詳細は関根氏資料参照を願って割愛し、中の 「中央亜細亜横断日記」 に誌された帰国ルートからカブール→トルメッツ間の行程、全24日の記述のみを選択抜粋して以下に示し、併せて地図を作成した。
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田鍋安之助;ヒンドクシュ越えの記録
以下 日時は大正14年(1925年)12月、距離;アフガン里, 標高;グーグル・アース map のカーソル表示による概略値
第1日 12月8日 10時 カブール1830mを発つ 田鍋、アフガン外務省の通訳、 通訳の従僕、護衛2名、馬5頭ロバ1頭で北上 日行程 12里 旅宿では薪を焚き蝋燭を灯す 17時 サライホジヤア着 1551m
第2日 9日 8時半 出発 ヒンドクシュの雪線に沿って進む。日行程騎行 10里 14時半 チャーリコール着 1650m
第3日 10日 8時 出発 10時 プレマターリ着、ゴルバンド川清流に沿う 郊野尽き山に入らんとす 急坂無く4騎並行の良道 日行程16里 騎行10時間 18時 シャーゲルト着 1882m
第4日 11日 7時40分 出発 ゴルバンド峽を西進14時 峡尽き風景開く ヒンドクシュの山並みを望む 日行程13里16時半 ダーニーネルフ着 2461m
第5日 12日 8時20分 出発 河を遡行シバル峠3285mを越えクンドウス河水系に遷る 水路凍結 捷路を歩く 露人10余人の乗る大使館の自動車 露人騎馬2人等、多くの露人往来を見る 日行程 9里 疲労多し 15時半 チュンブル着 2710m
第6日 13日 8時半 出発 河水凍結洗顔不能 ゴルジュ3~4哩を降る 11時半 バーミヤン河出会い遡上 バーミヤンに至る 日行程10里 カーブルより70里、全行程自動車通行可 16時 バーミヤン着 2450m
第7日 14日 終日バーミヤン休息 大仏制作を6~7世紀と誌し、多数の石窟、シャリゴルゴラまで観光
第8日 15日 8時半 出発 10時半バーミヤン川を離れ凍結、騎行不能の北支流沿いに仮道を遡行、急 登してアリラバットに至る 此処まで良道 4騎並行可能 依然積雪無し 14時 アリラバット着 3128m
第9日 16日 8時 出発 2~30分の登行でアリラバット峠 3325m 着 今回の行程で最高点 急峻で河水凍結、馬を曳き登降 ヒンドクッシュの難路 15時半クンドウズ 河上流スエイゴン川に至り西に遡行、2,3の大村 田園開け スエイゴン に至る 日行程 12里 17時 スエイゴン着 2035m
第10日 17日 7時50分 出発 約1時間にして登坂にかかり九十九折りなるも良道 騎行可能 更に1時間でダンダンシカン峠絶頂2540m に至る 下り急峻、馬を曳き2時間を要す スエイゴン川北支流畔 コマールに達す 露油を積む駱駝隊に会う 日行程 6里 14時 コマール着 1836m
第11日 18日 9寺半 出発 北支流を下る 果樹園数哩続く 13時北斜面からの濁流を遡行 直立数十丈のゴルジュ(ダルバンド) 道途平坦 連日の騎行 マデルに達し投宿 日行程 8里 14時 マデル着 1904m
第12日 19日 8寺半 出発 1時間後ヒンドクッシュ最難関 カラコタル峠にかかる 羊腸たる九十九折 漸くカラコタール峠越え く絶頂2940m に達す 平坦な高原状山巓をほぼ1時間歩き下降にかかる 16時 ドウアオ(Doab)着 登降に3時間半,更に1時間第二の峠(キジルコタル2880m)を越え、漸くヒンドクシュの両難所を越してサマンガン水系に遷り ドウアオ(Doab)に着す2279m
第13日 20日 9寺 出発 サマンガン川に沿って降る 両岸直立数十丈のダルワザ約2哩通過 悪路の急坂 に2時間を費やしてルイーに投宿 露人男1女2(大使館書記官)と同宿 15時 ルイー着 1898m
第14日 21日 9寺 出発 流氷川面を覆う 数十丈のダルワザ 小峠の昇降、再びゴルジュ2哩 漸く田園開けホーラムに着す 山中にて露軍中佐カーブルに赴くに出会う 15時半 ホーラム着 1816m
第15日 22日 8寺 出発 11時 高さ400~700尺に及ぶ大岸壁のゴルジュ10余哩を通過してハイバクに着く ヒンドクシュ山路の尽きるところ 以降道路極めて良好となる 7時半 ハイバク着 980m
第16日 23日 10寺 出発 川を離れ騎行2時間 麦圃果樹園相連なる 小丘を越えアズラテソルタンに投宿 郊外丘上にアステルソルタンの墳墓あり
15時 アズラテソルタン着 939m
第17日 24日 10寺 出発 サマンガン河の濁水に沿って降る 自動車通行可能な平坦路 サイヤットに投宿 周辺綿花栽培多し
14時 サイヤット着 666m
第18日 25日 10寺 出発 クリスマス 濁水に沿って下りタシュクルガンに下る 周辺僅かにヒンドクシュの面影を残し、タシュクルガンに至り初めて北方に大平野をみる 日行程 7里 14時 タシュクルガン着 462m
第19日 26日 8寺 出発 平野を西進 午後ナイブアバットに小憩 道路険悪小山を越えてえてバルフ川水 系に遷り ゴリマル に至る
17時 ゴリマル着382m
第20日 27日 8寺 出発 マザリシャリフに到着 外務官吏出張所に宿す 旅中初めて入浴す 12時半 マザリシャリフ着 363m
第21日 28日 マザリシャリフに滞在 ソヴィエト大使館訪問 税関の荷物チエック、テルメズ入国の手続きなど
第22日 29日 マザリシャリフに滞在 人口:20,000人 過半はウズベク人 緑のモスクなど観光
第23日 30日 村名忘失(Khairabad か?) マザリシャリフの北に巨大な廃墟を見る 旧都バルフの廃墟か? 軍隊と同宿 310m
第24日 31日大晦日、晩景のアムダリア、トルメツの対岸に着く 露軍の監視の下で船で渡河 寒期で水位 が低く川幅の半分で下船、干潟を歩いてトルメツに上陸 ウズベク自治共和国ロシア領事館に入る
テルメズに到着 298m
その後、鉄道でカガン、タシュケント、莫斯科(モスクワ)へと移動、シベリヤ鉄道で帰国するが、別添地図以外、田鍋の全体行動、日記の詳細、ユニークな観察、業績などの詳細は
「中亜横断莫斯科へ出る記」(関根)(ハイパーリンク)を、参照して下さい。
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