2010年4月、前田耕作先生が岩波新書、赤版1243 として表題の「玄奘三蔵、シルクロードを行く」を上梓された。
先生が長年暖められた主題を、玄奘の生誕から出国までの修行の時代、出国から天山までの西域路、天山を越えソグドの国々を巡ってアムダリア水系に遷る鉄門まで、古代バクトリアゆかりの国々からアムダリアを渡河し、ヒンズクシの峻険を西端ダンダンシカン峠で越えてバーミヤンに、そして現在先生が保存に取り組む、爆破されたバーミヤンの最新情報と進み、最終第6章では迦畢試・ベグラムからハッダでは燃灯仏授記にまつわる遺跡を詳細に語ってカイバル峠に到達し、法顕、宋雲に思いをはせながら 「ガンダーラが見える。この国の東の境を区切る信度河、インダスの流れもやがては見えてこよう・・・・」で擱筆される。先生のロマン溢れる好著になっている。
印度国内と帰路のバダクシャン、タクラマカン周辺の記録を今回の著書では割愛されたが、往路の河西回廊、天山南路、ソグド経由鉄門越え、アムダリア渡河、クドウズ、バルフを迂回してのヒンズクシ西端越え、バーミヤン、迦畢試、ハッダを巡ってカイバル峠、という 所謂 唐代シルクロード、天山南路の北道を、西突厥の強い影響下に通過したルートとして貴重な記録が鮮やかに蘇っている。
現在、「シルクロード」といわれる東西の交渉路はスキタイの昔から多くのモノが行き交った。金、銀、毛皮、宝石、瑠璃、玻璃、玉、真珠、絹、錦、・・・。七宝 としてくくられるお宝、通貨としてのコイン、もちろん最良の通貨は絹であったが、さまざまな財物と倶に多様な宗教も人の移動も一緒だった。
カザフを通るステップの道、玄奘の歩いたソグド道、フェルガナ道、カラテギン・アライ道、パミール・バダクシャン道、ワハン・パンジシール道、等のように西域から、バルフ・バクトリアに向かう東西道は北から南に水系を辿る複数のルートがあり、シルダリヤからインダス水系ガンダーラに下る南北道には タクトンバッシュ・フンザ・アストール・スリナガルの最東端ルートから、キリック・(ミンタカ)・インダス懸度・ガンダーラルート、サルハド・ボロギル・ダルコット峠ルート、イシュカシム・ドーラ峠・チトラル・スワートルート、イシュカシム・パンジシール・迦畢試ルート、クンドーヅ・バグラン・ハワク峠ルート、バルフ・ダンダンシカン峠・バーミヤン・カーブルルートなど多数があった。
東西路は北のステップ路が古く、南のワハン路に向かって歴史的には新しくなるようで、南北路はカシミール路から西のダンダンシカン路に向けて新しくなるように謂われる。それぞれ天山(凌山)、葱嶺(サリコール)、ヒンズクッシュ(雪山)をどの峠で越えるか、そしてアム、シル、インダスの大河をどこで渡るか、オアシス路の何処が治安が良いかを、その時々の政治権力に従って選んだ隊商の真剣な情報網によって左右されたのだろうが、19世紀に「シルクロード」の概念が出来たときには、東西路、南北路とも多数のルートが識られて論議の的になっていた。
この度、前田先生から新著にあわせた玄奘路を現代の一般地図に重ねて示すという貴重な機会を頂き、不勉強を顧みず先生の各章にあわせて6葉の玄奘ルート図を作成し、新書に載せて戴いた。製本の都合上、2ページに跨る印刷になった図もあるので、この場を借りて全ての図をここに再録させて戴いた。前田先生の好著を読むに当って参照して戴ければ と思います。
投稿情報: 17:13 カテゴリー: シルクロード | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
中央アジア史を大きく動かしたクシャンの盛衰に関し、其のおおもとをなす五翕候の勇、貴霜翕候の揺籃の地がワハン回廊西半分であることを含む五翕候の領域について、白鳥庫吉先生の説が戦前から通説化していたが、最近、貴霜揺籃の地はクンドウズ川がアムダリヤとの合流点に近いキシュト・テペであろうとする前田たつひこ先生のオクサス川南北のバクトリヤに拡がる五翕候の新しい領域展開説が発表された。
両説をイラスト化して比較すると、大月氏西遷を含めたオクサス(アムダリア)周辺、バクトリアとワハン、バダクシャン一帯の勢力関係がが全く違って見えるところをを確認する。
新聞の惜別欄で藤田和夫先生の訃報を。
私の灯台だった先生を偲んで
六甲を研究のフィールドにして神戸の大震災を予告したが「ここまでひどいとは・・」と、絶句せしめた活断層の大家の訃を新聞は震災記念日の前夜に報じた。
写真; 環境省 「放鳥トキ情報」09/01/07
正月2日夜、NHKのゴールデンタイムに、モーターパラグライダーの第一人者の撮影になる日本各地の鳥瞰風景が「何という絶景・・・」のナレーションとともに放映された。雪に覆われた知床を俯瞰しながら荒れた海、絶壁、雪山と流れる画面は初めて見る絶景で感動を呼ぶ事は確かだ。雪の林にエゾシカの群れが移動する。モーターグライダーの爆音が追い散らしているのだが、美しい画面では爆音が消してある。
かつてシルクロードの草原に放牧された駿馬の群れが駆けめぐる画面が放映されたことがあった。爆音を消したお茶の間では一服の麗しい絵だが、逃げまどう馬にとっては晴天の霹靂であったはずだ。
空撮は佐渡に移る。赤松の並木を上空から、冬でも朱鷺(トキ)のエサを確保するために水を湛えた美しい棚田はなめるような超低空でカメラは動く。現在は8羽しか居ないため此の画面にトキは現れない。勿論、爆音は消してある。
此の撮影を環境庁は許可したのだろうか。50年の歴史を持つ保存運動に携わる現地農民は協力したのだろうか?。グライダーの愛好者は複数だ。パラグライダーにはは飛行の自由があるだろう。今回の飛行をトキの繁殖期に真似する、或いは営巣中のスクープ写真を撮りに来る者が無いという保証はないのだ。勿論爆撃飛行を伴って。
放送終了後直ちに私は撮影者のホームページにメールを送った。10日経っても反応はないので、佐渡市役所にメールのコピーを送り、何らかの飛行制限について問い合わせをしたが18日現在何の反応もありません。佐渡では関係者の苦労の末に漸く放鳥された朱鷺に間もなく繁殖期が始まります。
参考までに私のメールのコピーは「続きを読む」をクリックして下さい
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* 多胡氏に当てた小生のメールに関し、09.02.16、担当の方から、
「佐渡の空撮についてはNHK新潟支局を通じて、朱鷺の放鳥前に撮影する条件で許可を取って行っており、大正池にについても同様」と電話連絡を頂きました。
投稿情報: 16:56 カテゴリー: ニュース・社会 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
1979年アフガニスタンに侵入したソ連軍は10年に及ぶ戦乱の結果、1万5千の兵を失い3万7千の負傷者を抱えて89年に中央アジヤの全般に混乱を残したまま撤退した。アフガニスタンは以降10年にわたる内戦で疲弊、崩壊したソ連では91年以降13の周辺共和国も独立したが平和にはほど遠かった。西カフカスのチェチェンもそのうちの一国だったが94年には懲りることを識らない新ロシヤ軍の介入を受けて第1次チェチェン戦争となり95年の和約後様々な不幸な事件の後、99年には再び第2次チェチェン戦争に至った。ロシヤ人監督アレクサンドル・ソクーロフは「戦争に美学はない」と、戦場のグロズヌイ駐屯基地を中心に戦闘場面は一切出さず全編基地内ロケのみで、戦争の矛盾を描いた。
映画は「チェチェンへ アレクサンドラの旅」として昨年末から渋谷のユーロスペースで公開されている。アフガン派兵を論ずる国会の識者は一見の義務がある。
ベルリンフィルに在籍30年、永らくコンサートマスターを務め、この度活動の本拠を日本に移すことになった安永 徹 が 67th 紀尾井シンフォニエッタでコンサートマスターと弾き振りで、市野あゆみ とピアノコンチエルト。
曲目はモーツアルト:第22番 変ホ長調 K482
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大正14年12月、冬のカーブルを発ってバーミヤン、ダンダンシカン峠を越えるヒンドウクッシュ西足道を日本人最初の踏破者としてマザリサリャリフに到達し、大晦日の夕刻、水位の下がった川面を半分ほどで下船してのこり半分は州を徒渉して対岸テルメズに上陸し、以降鉄道を利用してタシュケント経由モスクワに赴く。
帰国はシベリヤ鉄道で、15年初夏に東京に帰着した。帰国後大著「亜富汗斯坦」を上梓し、日本、アフガニスタンの友好に尽力した田鍋の数多い業績の内、此処には前記ヒンドクッシュ越えの24日間の日記から踏破したルートのみを抜粋、要約し、併せて其のルートを検証してカーブル、バーミヤン、ダンダンシカン峠越え、マザリシャリフ、アムダリヤ渡河、そしてテルメズ到着まで地図を掲載する。
投稿情報: 11:00 カテゴリー: シルクロード | 個別ページ | コメント (1) | トラックバック (0)
投稿情報: 00:56 カテゴリー: 音楽・美術・展覧会 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)