雨の音で目が覚める。いよいよ今日はキリック峠だ。しばらく様子をうかがっているとやがてその音は雪に変わりハークの下、サドブルデイ地区といわれれるキリックべール左岸に張られたブルーのテントは淡いシャーベットに包まれる。かといって決して空が暗い訳ではない。テント内の気温は五度。漸くここまで来たのに中止はないだろう。さまざまなシーンが頭をよぎる。でもハークでは一枚ごとに深呼吸を必要とした岩絵の撮影だけ何とか昨日の午後にすませだ。諦めても良いか。しかい昨夜シュラフに潜り込むときは鮮やかな天の川を仰いだし、明け方には遅く揚がった下弦の月にキリックベールは皎々と水音を絡ませていた。そして今は雪だ。
「山の天気とPIAのフライトは政府と同じで分からない!」とガイドはニッコリ微笑んで出発を一時間遅らせると告げた。PIAの天気は見事に替わり七時半にはカシミヤのセーターにゴアの上下でとにかく出発、キリック谷の左岸、山羊たちのつけた急坂の踏み跡を喘ぎながら登る。
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今時、何でキリック峠に行くのか。ミンタカといいキリックと言っても今時の若い人たちは多分関心がないらしい。昨年K2(「岳人」八月号参照)の帰りにこの峠に立った寺沢玲子さんによると、山の雑誌の若い編集者ですら「大谷探検隊って何ですか?」だったという。だからこの「歩き方」はミンタカ、キリックと聴いてある程度、血沸き肉踊る世代、さらにボロギルからダルコット峠攻めの後、イルシャド峠からサルハドに戻ったといはれる高仙芝の道筋から、ワハン、中国とインド世界の接線に置かれ、有名無名の沢山の歴史を刻んできたたいくつかの峠に限りない愛着を抱くような一部の古い人々がもしその気になったら有効であるように、そして昨年ミンタカ峠に行きながらキリックに回らず、イルシャド峠の両脇のピークを攻め、さらにクンジェラブからカラクリ湖に廻った元気いっぱいの大学山岳部のような「登山隊」ではなく、アマチュアの老高年トレッカー三人が どんなふうにキリック、ミンタカ峠に辿り着き、ハポチャン峠で敗退したかを記すことになる。
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1902年(明治35年)十月、第一次大谷探検隊の大谷光瑞師一行三名はすべての荷物をそして自らもヤクに乗って、ミンタカ峠を北から南に越えた。途中鞍から下りて坂道を上がってみたが、三歩で呼吸が絶えんばかりになり、五歩も歩くとまさに倒れんばかりになったと記しているが、ミンタカ・アクサイを午前六時に出発し、0時10分ミンタカ峠鞍部、午後6時30分にはミンタカ・キリック両谷合流点のムルクシのキャンプ地に着き、今日の行程は54kmであったとさりげない。峠とムルクシの中間、ヤトム・グーズをベースキャンプにミンタカ峠を目指した我々はヤクにこそ乗らずだが、まさに倒れんばかりのスピードで往復に十二時間を要したのだった。
なほ光瑞師は峠の高度を当時のイギリス版インド地図によって5170mとしているが、私の測定では中国が建てたコンクリートの国境標柱(最も西の柱)位置で4707mであった。蛇足だがいくつかの英語版の地図でミンタカ峠は北緯37度線の南に置かれる。今回の旅では、グルカワジャの石子屋で37度線を越え、37.00.13.9 峠では N:37.00.26.5 E:74.51.16.6 であった。この位置についてはのロシヤ版の地図が正しい。
峠は一面茶褐色のモレーンの堆積で、全く緑の草原はない。グルカワジャ氷河の舌端を北に折れてひと登りした峠の入り口と頂上モレーン丘の一段下との間は池塘を伴った高層湿原になっているがそんなに大きくはなく、とても千匹のアイベックスを養うには遠い。総じてパキススタン側は過剰の移牧によるものか南斜面の草原は疲労が激しく、双眼鏡で見る限り中国側には草原が豊かで、犬を交えたヤクがノンビリ群れ放たれているのが見えた。峠に至る過酷な踏み跡でガイドのシカリ(狩人)は熊の足跡、マルコポーロ羊の足跡を指さすがムルクシから峠までで私の見たのは突然20メートル先を駆け抜けたアイベックスの一頭だけだった。 なほミンタカ峠は日パ旅行の督永さんが98年解放後初の訪門者となり、その紀行文がホームページに掲載されている。
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スタインが初めて遺跡調査でコータンに向かうルートにキリック峠を選び、インド側から北に越えたのは1900年の6月だった。多くの苦労を倶にしたフンザのポーターをミンタカとの分岐点ムルクシのキャンプ地でタグドンバッシュ側からヤクをつれて来ていたワヒ族の一隊に替えてパミールに向かった。 その後百年、ミンタカもキリックも我々にとって閉ざされた幻の峠であり続けた。
廣島さんの「地球の歩きかた」にも巻頭の地図にマークされるだけで、本文にトレッキング情報はない。マップハウスで手に入る程度の市販図は全てといってよいほど北緯三七度線以北の詳細はない。したがってミンタカ峠はかろうじて記載されるがキリック峠の位置は確認できない。パキスタンで入手出来るフンザの図もUSAFのナビゲーションシートと同じで人工衛星データを反映しているはずなのに肝心の場所は不明確。やむを得ずロシヤの地図と重ねてみると国境線とはそれぞれ自分に都合の良い山並みを選んで勝手に線を引いているので互いの位置は全く合わない。最後に望みを託して宮森さんの労作地図集をナカニシヤから送ってもらったが開いてみたら37度線の北はなかった。やはり幻のキリック峠の位置は自分の足で確認するしかないのか。キリックベールの最上流はハークで西南に曲がりハポチャンベールとなってワクジル峠を抱える山並みのワハン国境に伸び、そこにワハンに直接通じるハポチャンパスがあると聞くがそこの確認もしてみたい。ハポチャンから一本南のデイルサンベールに向かうワドワシュク峠とは本当に越えられる道なのか。現在地元のワヒ族がワハンとの行き来に多用すると謂うデイルサンパスに、はたしてハポチャンから通じるルートはあるのか。オビス・ポリ(マルコポーロ羊)の豊かな巻き角、スノーレオパード(雪豹)などを垣間見ることも出来るのだろうか。九五年に廣島さんと一緒にカランバール峠を越えた仲間で、何れも五十代初めのトレッカーだが、このあたりの峠に詳しい領家女史(フードコーディネーター)、木村さん(出版社勤務)と三人でとにかく出かけてみることにした。七月の最終週出発のPIAの切符をアルパイン・ツアーにお願いして三週間の旅がこうした始まった。
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パスーのシスパーレ・インの前庭、たわわな林檎の木陰に張ったテントを撤収して出発したのは午後だった。午前中はフサイニーの吊り橋だのパスー氷河右岸をボルツ湖側から時間の許す限り登ったりして体調を整え、グルミットからのコック二人、ガイドのイマン君、我々三人、現地旅行社のオブザーバー、カリムさんとたまみさんの二人、ハイエースの屋根にはテント、調理器具、食料缶、燃料油、プロパンボンベ等を満載してソストに向かう。ソストのリヴィエラホテルで遅い昼食、ナフキンと磁器の食器はここから当分お預けとなる。
二台のジープに積み替えてミスガルに入り清冽な流れの橋の袂、漸く秋になろうとする小麦畑のかたわらに第一日目のキャンプを張った。ミスガルは“岩の鼻”の意で部落に入って間もなくの路傍に水車小屋と道路を挟んでダルガーのごとく石積みの垣に色とりどりの小幡とアイベックスの角を飾り、中には一メートル程の平たい岩の先端に犀の角状の突起(岩の鼻)が下向きに突き出たものが祀られている。、昔はこの突起から植物油が垂れていたと謂う。聖者学会の木村さんにはムルターンのみならずバーバー・グンデイを頂点とする北部山岳地域の聖者廟巡りの宿題が増えたことだろう。明朝からトレッキングだ。食事を了えて荷物の整理をしていると、村中の人々が一団の楽師とともに現れ、ミスガルで最初の組織的ポーター雇い主に感謝のしるしだといってフンザダンス・パーテイを開いてくれた。ゴジャールの中にあってここはブルシャスキのフンザ人最奥の村なのだ。村人の次には客人も踊るのだと言われ三人を代表して私が踊ると、喝采の村人から被せられたフンザ帽と両手に数百ルピーが寄せられ、形通りにそれを楽師に献呈した。標高3000mの闇夜に太鼓と笛と水音の三拍子に乗ってルールに合わぬダンスを息絶えだえで踊る71歳の異国の青年に暖かい拍手と口笛で応援してくれたミスガルの人々に感謝。
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翌朝、沢山のポーターが集まり荷物の配分に手間取ったりしている間に我々5人はその道39年、20歳で狩りを初めてから465頭のアイベックスやオビス・ポリを獲ったと言うベテランのシカーリー(狩人)ジャバールさん先導で一足お先にカラムダルチに向かう。気温はすぐに33度に上昇するが絶えず唇にリップクリームが必要なほど湿度が低いので殆ど汗ばむことはない。カラムダルチの吊り橋(3107m)までジープの予定だったのにとコボシながら進み 、KDフォートの下でデイルサン谷を分ける。そういえばミスガルを今朝早くオオタケンジさんがデイルサンパスに向かって発ったと集まった村人の一人がローマ字の名詞を見せた。オオタさんは98年にはキリック、ミンタカに行ったとその人は言う。デイルサン谷の水はキリック谷より色が濃い。氷河の動きの激しい谷か。機会を得てデイルサンパスには行ってみたいとふと立ち止まる。
逆巻く激流に架かる山梨の猿橋的跳ね出し構造のユニークな橋などを渡りながらやがて涼やかなアーバドブル(3310m)の柳の林に付くと、先行したコックとポーターがテーブルとイスを据えてランチの用意が出来ていた。休憩を了えてカメラと水、ゴアジャケット程度の軽いザックでまた一足お先。夕刻4時、標高3537m、一面の草原にナンキンコザクラ風ピンクの咲き乱れた中を崖下から湧く泉が流れを作るルプジャンガル(「大きな森の意」)に辿り着くと、大きなキッチンテントとダイニングテント、我々の個人テント六張りが色とりどりにそよ風に揺れるダケカンバの木陰に張られているのであった。夕食は野菜のスープ、炙った鶏肉、野菜、馬鈴薯の煮付け、ピラフ、ナン、チャパテイ、デザートはプリン、ミックスチャイとフルコース。下弦の月に輝く山肌に看守られて第一日は夢の中。とまあこんな毎日が4300m、キリック峠のベースキャンプ最後の日まで狂い無く続いたのだった。 ここルプジャンガルは水場が近く水質も良い。殆どのキャンプ地では水に氷河特有のシルトの臭いがあり調理後も抜けないので日を重ねると食欲に響く。日本茶などは全く歯が立たない。水の臭い消しにはポカリスエットか濃いめのミックスチャイがよく、今回高地での利尿効果を期待して持ち込んだキササゲ茶も有効だった。 二日目の朝は快晴。フンザスープ、オムレツ、チーズ、フライドポテト、チャパテイ、チャイ、と日本から持ち込んだビタミン剤の出番がない。ミスガルからのポータ長をつとめる若者(廣島さんとスキルブルムで一緒で怪我をしたが生還)がきびきびと荷物を25kgずつ計量するのを横目に今朝もまた一足お先に出発。1kmを越すような大きな河原、日本庭園風、等変化に富んだ右岸を遡行してルプジャンガル風草原のムルクシ(雨の家の意、3640m)で休憩。
ここは往時フンザミールの狩り場で、東正面川向こうに聳える4000m程の孤立する巨岩に勢子が追いつめたアイベックスをミールが討ち獲るのだそうだ。ここはルプジャンガルと同じく夏村の家畜を入れないので他の谷筋に点在する多くの草原で羊ブランドの芝刈り機が活躍した様子とは異なり、一面にくるぶしまでの柔らかい草に覆われ、ダケカンバを点景にシヲガマ、エーデルワイス、など貧弱ではあるが少々の花も見られる。西側の背後には狩り場の大岩に向き合ってやはり屹立する巨大な山並みが立ち塞がるので夕陽は早く遮られすぐに寒くなる。冬には村人によって野焼きの火が入るという。
ムルクシの北の正面は衝立のような大きな山が東にミンタカベール、西にキリックベールと振り分けるのでキリック谷を渡橋して右に滑瀧状の急流を見ながらミンタカ谷の右岸山腹を急登する。正午、広々と拡がる草原ボア・ヘール(3955m)で用意された椅子テーブルについて強烈な陽射しを避ける折り畳み傘を差しながらビスケットにオイルサーデイン、ナマックチャイを飲む。ナマックとは塩のことで以後この味に魅せられ毎度オーダーすることになる。
すぐ前の河原では若いポータがショール状の布を広げ二人がその両端を押さえ、数人が喜々としてその布に追い込む、殆ど手掴み同然の方式で鱒採りをやっている。芝生に座り込んだコックはもう数百匹の鱒の腹を割いているところを見ると、我々の辿り着く相等前に到着して魚採りに興じていたに違いない。氷河の削ったシルトでグレーになった水に棲む魚は鱗の色も何となく白っぽく、鱒と言うよりは陸封の鮭といった姿に見えた。陽傘の下で存分に食べたハルブーザのおいしかったこと!。
この後に左岸に渡る70mほどの徒渉がある。我々の快適と愉快を支えるための22人のポーターと我々は膝上までの冷たい流れを渡る。喉元を過ぎると懲りない面面はカメラを取り出し、背の荷を結び直され、むち打たれて渡る山の宅急便、三頭のロバに向ける。2時50分やや風の強くなったヤトムグーズ(4009m、ミスガル住人のミンタカ側最奥の移牧夏村)に到着。気温26度なのにゴアを着ないと寒い。
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大変だ。昼食後何となく元気の無かった木村さんがダウン。9度8分の高熱だ。風邪や下痢ならば休養で治るだろう。医者のいない4000mのテントの中で、もし高山病だったらどうするか。急遽作戦会議のすえ明朝一番にロバでとにかく低地までおろす。1000m低いミスガルでシカーリーの弟の医者に診察を頼む。ジープを用意してギルギットの病院に送る。お気の毒だがカリムさんとたまみさんに付き添ってもらう。屈強の伝令を一人つける。我々は下山準備をしてムルクシに戻る。伝令の返事が快方ならばキリックに向かい、悪いようなら中止して下山と決める。元気になればチャンスは復たある。とにかく無事に東京に帰さねばならぬ。断腸の思いで木村さんを説得してミスガルに送り、その間、ミンタカのベースに予定したグルカワジャにキャンプを進めるのを取り止め、残った二人はヤトムグーズからミンタカ峠往復を強行する。ムルクシに戻った翌朝驚くべき早さで伝令が戻りギルギットでの診断結果は吉とでた。早速フンザパン、生卵、野菜などの食糧補給と、足慣らしにキリック谷をシプ・シピックまで往復して明日に備えた。
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キリックへの道はミンタカより緩やかだ。何世紀も昔から駄獣を連れて往復可能なメインルートだったのは頷ける。ミンタカには途中グルカワジャの流れを堰き止めた巨大モレーン堤が立ち塞がり、ポーターが杖でモレーンを削り落としながら砂煙とともに先導する靴一足幅の崩れかかる急斜面で130m下の流れを見ながらトラヴァースして乗越す所があるが、キリックにはそんな危険な場所もなくシリン・メダン(甘いお菓子のように素敵な草原の意、4121m)の美しい草原でランチをとり、谷を上ると正面に東西に伸びる比高200m程の高さの山並みに遮られる。そこがハーク(キリック側最奥の移牧夏村)で谷は東西に分かれ、東はキリック峠に向かい、西はハポチャンベールになる。突き当たり山麓台地には沢山の岩塊が集まり、それらにはヤク、アイベックス、弓をつがえる狩人、人の掌などの素晴らしい岩絵が彫られている。一時半、我々は合流点のキリック側左岸、サドブルデイ地区(4340m)にブルーの個人用三、イエローのキッチン、食堂と五張りのテントを置いたが、ベースキャンプといってもこの巨きな風景の中では芥子粒のようだ。翌朝雪の止むのを待ってって峠に向かう。領家さんにはガイドのイマン君が、私にはシカーリーが個人ポーターとなりチーフコックのアユーブさんはランチ一式を背負って行く。氷河を持たないキリックベールに左右から水量の多い二本の谷(西ウインペルト、東コージャゴム)が合流する処で右岸に渡り急登後の台地を進む。谷が西に折れた4664m 近から更に一登りして国境に近づく。1kmほどもある広い峠の草原には水を補給する雪渓は衰退して完全に干割れ、牧草どころか花一輪の風情もない。峠に立つ国境標柱の中国側にはジープの轍がくっきり。そしてここも中国側北斜面には草が豊富だった。アガ・カーンやブット大統領のゴジャール視察の時も調理を引き承けたという我がコックのアユーブさんは少々の草地を探して食布を拡げ、器用なナイフ裁きでミンタカに続いで昨夜ツブした二頭目の山羊の片腿を切り分け、フルーツの缶詰をあけた。ワヒ族のアユーブさんのおばあちゃんは彼が子供の頃までムルクシに住み、シプ・シピックの名泉で料理を作り、ハークの岩絵の周辺で薬草のギョウジャニンニクやボズランジュを採集したと昔を偲んだ。決まらない京都議定書をよそに、温暖化と乾燥は着実に進み、死に瀕する峠の緑。複雑な思いでハークに向かう帰り道、緩やかに下るキリックベール、遙か下方の岩絵の台地の向こうに急カーブで迫り上がるハポチャン谷の大きなカール突端最奧にアフガン国境に張り付く氷河が光る。3時45分ベースに戻る。
ちなみにキリック峠の標柱の位置はN : 37.04.42.4, E : 74.40.23.9 , 標高4809mであった。何れも中国が建てた国境標柱であるが、ミンタカ峠は3.キリック峠は2.の刻印、果たして1.はどこの峠であろうか。
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.この旅の最終はハポチャンにキャンプを移し、翌日アフガン国境の峠に往復する予定だったが 、ムルクシ待機で1日不足となり急遽「山の飛行機」ヤクに乗って行ける所まで行くことにした。ハークから南西に折れる左岸段丘を正面の国境氷河に向かう。対岸の草原ラプドラクには沢山のヤクが放牧されている。大小二頭の飛行機の小さい一頭には雄なのに角がない。ヤクは北岸の沢から放出された大量の土石流が作る大きなギャップを時速4kmでコンスタントに進み大きな登りでは心臓の鼓動がこちらに伝わる。対岸の二つ目の大きなモレーンの迫り出しを過ぎると二つの氷河がV字状に谷に落ちかかる。谷はときに時雨れるガスにけむり、ときに氷河の奧に逆光に輝いて巨きい尖鋒を観る。下流側がワドワシュク峰に向かい、上流側のはアフガン国境に併行して南西に這い上がる。国境稜線にはもう一本の氷河が張り付き、その氷河を詰めればハポチャン峠があるはずだ。ヤクの手綱を取るシカーリーは下流の氷河はデイルサン谷のワドワシュクに、上流の氷河からはワルギストクーンを経由してデイルサンパスに行けるというが地図をにらむとパキスタン側に簡単に抜けるルートがあるとは思えない。もっとも現地のワヒには国境線の概念は薄いので正面国境のハポチャン峠を越えて一旦アフガン側に入り、六千メートル弱のピークを迂回して国境稜線を再びパキスタン側に入ればワルギストクーンに降りられるルートはありそうだ。地元で「ハポチャン峠は2カ所ある」と言うのはこのことか。何れにしても五千数百メートルの峠と氷河を渡る力量を持たない我われとしてはここまでだと観念する。
ハークの夏村にワハンから出稼ぎのワヒ族がいた。牧畜技術に長けたワヒ族はここでも重宝な季節労働者なのだ。どの道を通って来たかを問うとデイルサンパスだという。ハポチャンパスが目の前にあるではないか。わざわざカラムダルチに下りてムルクシ、ハークと遠回りしてきたのだ。賃金はドルか。いやルピーだ、帰りにチトラルで買い物してワハンに戻るのだという。アフガンの羊をワハンから補充するときの移入ルートもみなデイルサン経由だという。すなわち今、目前のハポチャンは誰も通らない峠なのだ。降り出した空を眺めてこれは我々アマチュアの手に負えないと自分に言い聞かせ、ここで(四五八一m、東経74.35.04.6)敗退すことにする。弱い霙を避け近くの岩陰を利用した石小屋でヤクの糞を集めてお茶をわかす。オビス・ポリの角を見つけ頭にかざしておどけながら、私のキリックはこれで終わったと噛みしめる。
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快適で愉快な11日に及んだキャンプを支えるために現地の旅行社は精一杯頑張ってくれた。何しろシルクロードキャラバン社としては初めてのミスガル谷だしミスガル村でハポチャン峠を知る人は現在85才の老シカーリー、クダダッド氏がワドワシュクとともに55年前に越しただけという 。 出発前、昨年K2の帰りにこの峠にに立った飛田さん、寺澤さんから ミンタカ、キリック両谷に点在する夏村の状況と通過する所要時間、各所の写真等貴重なデータを頂き、八ミリムービーまで見せていただいて大きな力添えになった。この情報で私の手作り地図を訂正して行程プログラムを組み直し現地旅行社の Mr.Amin Ullah Baig 氏に送ったところ、ベイグ氏は我々に付き添うガイドのイマン君(ビジネスは着実で辞書の必要がない程度の日本語を話す好青年)にその地図を持たせ2週間掛けて全行程を廻らせ、間違いなく10日で予定通りトレッキング出来ることを確めていた。勿論ミスガルではポーターも良き山岳ガイドを務めた老シカーリーもその時手配を済ませてきた。本人は道を間違えたと言ってミンタカから中国側の美しい草原をキリックに向かい果たせずに途中野宿して戻ったりもした。彼のワヒ族の祖父は独立前のフンザの郵便配送人としてフンザとカシュガルを往復するプロだった。そのころ祖父はミンタカを通らずもっぱら手前ののグルカワジャ氷河沿いの道を利用したという。
快適は現地側の努力だけでは成立しない。参加するアマチュアも十日間一日の休みもなくシャワー無しで歩き続けるだけの我慢を養う必要がある。併せて高度順応も欠かせない。残念ながら日本では富士山しかそれがないが、力の弱い我々は快適を最優先に少しでも体調を補おうと、高度は低いがナガールのホーパル氷河、グルミット、グルキン氷河、パスー氷河を出来る限り歩き東京から7日目にミスガルに入った。おかげでゴジャール、フンザ地区で昔お手伝いしたシーア時代の古い木造モスク復元修理プロジェクトの10年後を確認したり、ナガールのミールに面会して親しくミールのモスクの説明を受けたりするおまけが付いた。
ミスガルでポーターに別れを告げた二人はソストのホテルで八日ぶりの木村さんに再会し、お互いの無事を喜んだ。シャワーを浴びて髭を落とし、翌日から三人揃ってクンジェラブ峠(4730m)を往復し、グルミット、ギルギット、ベシャム、にそれぞれ一泊、陸路イスラマバードに戻った。イスラマバードのホテルはマリオット、山の格好では恥ずかしい高級な雰囲気だった。最終日は木村さんの出番で聖者廟を廻り、領家さんの出番ではパキスタンレストランで最高の地元料理を堪能した。街のお土産あさりの他、マリオットホテルのアーケードでアフガンのクラシック絨毯を仕入れる人までいて夜行便の空港に向かった。山の前後、余分な遊びまで記すのには訳がある。7月27日イスラマバード空港に到着から三週間、再び空港に戻るまで、ガネッシュ、バルチットでのカメラ持ち込み料と、ホテルの枕の下に費やした少額のルピーを除く快適で愉快に過ごした全ての費用は、カリマバードのフンザ料理は勿論バルチット城の入場料、ダルガーの下足代やマリオットホテルを除くレストランのチップを含めて一切自分の財布を出すことがなかったという快適さも記しておきたかったのだ。出発前のVISAや航空券の手配、旅行社との不得手な英文メールのやりとりなど、幾分の煩わしさがあったとしても 「フルパッケージでお願いします」 のトレッキング方式は、これは癖になるかも。
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この小文の原稿を渡した数日後、悲しむべき不幸な事件(9.11テロ)が起きた。折角「その気になった」としても、ミスガル谷の要衝、送電線の終点、KDフォートに国境閉鎖の軍隊が大量に駐留する事態にならないとは言い切れない。1948年8月ここを通ったテイルマンは新興のパキスタン軍によってユニオンジャックが降ろされるところを記録している。繰り返されるのが歴史と謂うものかもしれないが、私どもが美しく楽しいミスガル谷訪問の最後にならないことを祈ってやまない。
(パキスタン協会・’01年秋 会報より転載)
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